昭和46年08月03日 朝の御理解


 御神訓 一、信心の心得
 「やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ。」

 簡単な言葉でようもこんなに、こんなに短い言葉で素晴らしい事が表現出来たものだと思います。まあ本当におかげを頂いて行くという事は、おかげを受ける、お徳を受ける、心になれよと、いわゆるそういう心の状態になったら,おかげが受けられるというか、お徳が受けられるぞというか、それがたったこれだけの、やれ痛やという心で有難し、今みかげをという心になれと。
 玉水の湯川先生がおっしゃっておられる。人といわれる自分の都合の良い事は、喜び都合の悪い事は不足にいうのは、まだ本当の神様がわかっていない。都合の悪い事も喜ぶようになれば、一切が自由になる。一切合切が喜べれば、一切合切が自由になる。金光教は生きながら極楽というように、例えばそれが痛い事であろうが、痒い事であろうが、例えば腹の立つ問題であろうが、情けない思いをする事であろうが。
 いわゆるやれ痛やである。やれ痛や、それを今ね、そういう心で有難しと受け、いまおかげを頂いておるのだと受ける。 そういう心になれよと、それなら本当に絶対だろうと思いますね。例えば、湯川先生あたりはそこんところをです、御自身がすっきり、矢張り頂いたんであろうと思います。あれだけのお徳を受けられ、あれだけの御ヒレイを大阪の地に打ち立てられた。
 そこで私は思うのですけど、やれ痛やという時にです、そういう時に有難しと思わねばならん、思わなければおかげが受けられん、どこがこれが有難いのであろうかと、こんなに痛い思いをするのがどんなに有難いのであろうかと、こんなに腹の立つ問題をどこに有難いという事が言えるかという、そういう疑問が起きてくる。その疑問が一つ一つ解かれていくところからです、成程一切合切がおかげだなあ、神愛だなあという、もう確固たる信念が生まれてくる。
 話を聞いただけでは分らんと、そんなら一切合切何かんでん有難いと受ければ、それでよかとですねと。そうですよ、そういうふうに受ければよいのですよといえばよいのですけど、実際問題として、痛い時、又は痒い時、又は様々な難儀をそこに感じる時です、それを有難いと思わにゃなりめえばってん、思われんと言う事、そこに私は追求と言う事を信心をいよいよ、あらゆる角度から、分らして貰わねばと言う事になる。
 そういう素晴らしい、いうなら生きながら金光教では極楽の道を教える、生きながら極楽という境地を開かして頂く事を教える。そういうところを、生粋のところを、こういう簡単な言葉で表現しとられます。まずここんところに感心致しますね 教祖の言葉で御教えの「やれ痛やという心で、有難し今みかげをという心になれ」その痛かというても、ちいと位痛かとならね。
 あぁ有難い有難いというけれども、私は子供の時から人が転んだり、痛い思いをするのに、非常におかしい笑っていても心がけとった、人がこげな痛か思いをしよるとにいうてから。先日も朝私が電気を全部消しとりますから、私の部屋から全部電気を消しとりますから、廻り角かどこやら、私達は大体見当で廻りますけど、家内が曲がり角でいやという程、額口を持っていったといいよります。それを聞いて、その時もおかしかったけど、それを夜中に思いだしたら、おかしゅうて、おかしゅうてたまらん。
 ほんにぶらぶらいうてきよってから、あの角の柱にぶっつけたら痛かろうと思うてから、面白いというか、おかしゅうて、おかしゅうて夜中に一人笑っておりましたけどね、これはどういう事であろうかと、私は変質者じゃなかろうかと思う位。ところがね、それこそ私共が目から火の出るごと、パッと痛い思いをした時、神様がほら分らんかと、大きな声をしていうておられるのに、只痛か痛か、お父さんがほんに始末、倹約ちゅうて電気消しとるもんじゃけんという事ばっかりなんです。
 だから私は子供の時から、私は人の溺れよると見てから笑うていっぺん怒られた事がある。それはもう、こうこうやって溺れよんなさるです。目の玉はこう飛び出るですね、溺れよんなさる時には、ぐうぐういうてそれを見て私はおかしゅうて、おかしゅうてたまらんもんじゃけん、横のおっちゃまから怒られた。人が溺れよる時に何がおかしかかというてから。後から考えてみればそうですけどもですね、私は神様は大体そう言う様な所がおありになるように思うのですよ。
 人間の急にぎりぎり難儀のところをご覧になってですね、神様はむしろ手を叩いて喜んでござるというところがある。それをよう皆さんがお届けされます、先生もうどうしましょうかと、涙を流してお届けなさいます。私がヒヤヒヤと手を叩くような事をいうでしょう。あぁよかとこ通りよる、そこを通らにゃ分らん。だから確かに神様はもっともっとそれよりか、高度の意味に於いてですね、人間のそうした難儀の様子を見て、お笑いになっているのではなかろうか。
 それは冷やかに笑うのじゃない。本当にわからん者と言いながらという笑いである ですから、私共の笑いは、やれ痛やという時に、すみませんと言う様な言葉が出たり、腹立つ思いがする時にです、もうすぐその後には神様なればこそと、その腹立つような事いわれたその事にたいして、御礼が言えれるところが、やれ痛やという心で有難しという事になるのです。
 なら、金光様の御信心はね、ここんところを究明していく以外ないです。そこから一切合切がおかげと頂けれるようになり、金光教は生きながら極楽の道を説くのだと又、生きながらに、極楽を只いっておられるですね金光教は、生きながらに。私共時々それを感ずる事がある。成程これが極楽だろうかと思う事がある。それをいつも四六時中感じられるおかげを頂かして頂く為に、信心させて貰い、おかげで徳を受けて、いわゆる、やれ痛やという時にです。
 有難し今みかげをという、みかげとは霊験、格別の不思議なまでの御働きを今こそ頂いとる時だとわかるというのです。事実がそうなのです。どんなに腹の立つ時でも、どんなに痛い時でも、ですからそこに私共がですね一つの絶叫と申しましょうかね、苦しい時に「金光様」を絶叫する、「親先生」と絶叫する。今度学院にいっとります娘直子が、まあ、高校を卒業したばっかりで参りましたから。
 まぁ学院では一番年が若くて、しかもあんな小柄で、子供のようにしとりますから、あれで修行生というのは、ちっとはむぞらしかというごとある感じもあるらしいのです。それこそ、次々と修行というのですからね、修行させられておる。もう、この頃からもうしまえとったじゃなかろうかという。大変な苦しみで体は冷うなってし終わって意識がなくなって、熱に浮かされて寝てる時に、口から何かブツブツ言いよる事が、金光様というのでなくてから、「親先生」、「親先生」といいよったと。
 当時その事が有難いとは頂けん、分らないけれども、その有難いと分らせて頂くその前提としてそのある場合が、親先生又は金光様である。ですからやれ痛やというその心で、有難しと思わせて頂く、分らせて頂くその前提はやはり、神様に御すがりすると言う事、それは絶叫にも似た心のものです。昨日、末永さんから手紙がきとる。その中に寝みつく前の事でしょうけれども丁度直子が親和会というのがあるのですね。あちらで皆、学院生一同がその親和会のお話をしなければならない当番に当たっておる。
 ここでは信心話などしたことも、又、しゃべらせても信心話などした事はない。信心の有難さなんか、勿論分っているはずはない。ところが当番になったものですから、やはりそのいろいろ神様に、おすがりしたらしい。一心におすがりしとる。それがテ-プになっておるのを書き写してお送りいたします。もう、皆さんが先生方が、信心はそれだといわれた。たった簡単な事です こんな事をお話してるのです。直子ちゃんの親和会の発表と書いてある。
 私は今日、親和会での発表で、何と発表していいかわからず、それでも神様が何とかして下さるだろうと思い、横着に構えておりましたが、神様はとうとうどうにもして下さらずに、今日になってしまいました。今朝起きた時から、今日の親和会の事を思い出しては、もう、私の小さい胸はどきどき致しました。参拝の時も御広前での御祈念の時も、この事が忘れられず、ずっと思い考え続けでした。
 そしたら奥城でき御神訓奉唱の時に「心配する心で、信心せよ」というのを頂き、ああ、本当にそうだなあと思い、それでいくらか胸がすうっとして帰りました。そして、寮に帰りまして、一寸時間がありましたから、合楽から持って来た教典感話を聞かせて頂いたら、丁度今朝、奥城で頂いて、「心配する心で信心せよ」のところを開かせて頂きました。私は奥城で頂いた御神訓と部屋に帰って開かせて頂いた御教えが全く同じであったという事に驚きと同時に、何かこう不思議でたまらない思いが致しました。
 そしてやはり私は親先生の御祈りの中に生かされているのだと言う事に気付かせて頂きました。どうも有難とうございました。とこれだけです、これだけのどこが皆さん素晴らしいといわれたかと、信心とはこれだ素晴らしい体験というて、麗々しい言葉でいう訳じゃないけれども、お話をせなければならない。然も沢山の人の前ではじめて話すこと、さあどう話てよいか体験もないし、けれどもやはり縋る所は金光様、奥城で一生懸命お祈りさせて頂いて、神訓奉唱の時に心配する心で信心せよと頂いた。
 いくらか胸がスキッとした。それから又、家に帰って此処でできとる御本がありますね、教典感話、あれを持っていっておったの開かせて頂いたら、丁度又同じ、心配する心で信心せよというところを開かせて頂いた。時にはもう一つの安心(暗示)を頂いておりますね。 こういう間違いのない神様の働きの中にあるのだから、こういう間違いのない親先生の祈りの中にあるのだからと度胸が出来たわけです。だからそれだけの事を話した これによく似た話があります。
 あれは加賀の千代でしたかね、俳諧の師匠に子供の時に弟子入りしたんです。そこで、それならひとつ俳句を作ってみよと、題を出された。ほととぎすという題でした さあほとどぎすという題に取り組んで、他の御弟子さんはどんどん出されるけど自分はどうも、ほととぎすという題の句が出来ない。とうとう朝方になんしまった。もう思いに思い、心に念じ念じ続けて一夜を明かした。そしてとうとう出来なかった。
 ほととぎす、ほととぎすで夜が明けた、という意味の句を作っとりますね。師匠がこれが一番ちゅうたと、実感なのだから、ほととぎすという題を出されたけれども、どうしても出来なかった。もういよいよ、朝方になってきた。だからそれだけの事を句にしたわけです。ほととぎす、ほととぎすで一晩中一睡もせんで、ほととぎすで終わった。もう夜が白んできたというのであります。だから弟子入りを許された。その句によって。私は直子の場合もそうだと思います。
 さあ今日の親和会でお話をせんならん。何をどう話そうか体験を、信心の話をまあ、真剣に聞いとけばよかったと思うたに違いない。話す事がない。そこでお縋りするのがやはり神様、神様に一心にお縋りさせて頂いたら、心配する心で信心せよという心であった。心配で心配でたまらん、心が少し落ちついた。帰って寮に帰って、教典を開かせて頂いたら又、百何十ケ条もある御教えの中の、その心配する心で信心せよとそのところが開かれた。だから、そこんところを話ただけなのである。
 私は信心というのはね、それが必要なのです。ええですか、やれ痛やという心で有難し今みかげをという心になれよと。ところがなれない。痛い思いをする、情けない思いをする、そういう時にはむしろ神様は手を叩いて喜びよんなさるような、いうならば、さあそこをわかるんだぞと。目から火が出るような思いがした。そこにね、ああ痛いというだけではいかん。電気がついとらじゃったけんではいかん。
 どうしたら目から火のでるような、痛い思いをせなければいけんか、もうほんに即、すみませんとか、有難とうございましたと出らにゃいけんのに、ああ、痛よとばっかりいうておるから、神様がおかしいと言いなさるとじゃなかろうかと私は思うのです。そこでです、わからんなその事を、どうしてと思い続けなければいけん。信心とはね、そういう一念を頂き続け、燃やし続ける事だと私は思う。
 おかげ頂きたい、おかげ頂きたいと思うならば、どういう信心をさせて頂いたら、おかげが受けられるじゃろうか、どういう信心にならせて頂いたらおかげが受けられるじゃろうかと思い、思い続けなければいけん。それこそ胸が痛うなるように、私はいっぺんそうい一週間、信心にいきづまりを感じた時に、もう、ほとんど眠らなかった事がある。確かにですね、思い続けると胸が痛くなりますよ。
 例えば好きな人が出来た、別れにゃならん別れ、別れになって彼女の事を想う 想い続けたら胸が痛うなる。胸の痛みに耐えかねてという歌がありましょう。これは本当ですよ、思い出したらもう本当にですね、もう胸が痛くなるです。錐がさすように痛くなるです。もうこの思い神様ちょっとさせんで下さいという位痛くなるです。裏表痛くなるです胸が。だから皆さんね、このような思いで思いなさった事はないでしょう。
 どういう信心させて頂いたら思うようになるだろうか、どういう信心させて頂いたら、神様に喜んで頂けるだろうか、私はそういう一念を燃やさして頂くところから、神様が本然としたものを下さる。仏教の偉いお坊さんが言うておられます。笹の葉の動きを見た時に悟りが開ける。蓮の葉の露がころっと落ちた瞬間悟りが開けた、と言うた様にそれは思い続けておる、どうしたならば本当の信心が分るじゃろうか。
 どうしたならばおかげが受けられるであろうかと、思い、思い続けておらなければ、カチッとした音一つで、心が開けるといった事があるでしょう。偶然開けるという事は絶対ありません。悟というものは、信心とは悟りとさえいわれております。悟れた時には即そこに、自分は極楽に居るのと同じ事であります。どういう苦しい中にあっても、飜然と悟れた時に有難し今みかげをという心が頂けるのです。
 やれ痛やという心で有難し、今みかげをという心、痛いけど中々有難しとはいわれない。ここをどう言う様な信心にならして頂いたならば有難しと頂けるであろうかと、祈り続け、思いつづける事なのである。その思いが私共には足りんように思う。その一念を燃やす事が足りないように思う もういっぺん神様にお願いしたら、それで良かとのごと思うとる。私共はそこんにきが少し人と違うとったように思う。例えばそれが分らんと言う事になってきたら、それこそ一週間、胸が痛うなるように思い続けた。
 私はその時の事を丁度休ませて頂いて、眠られない、胸が痛い思いがある。丁度私の枕元に誰かの着物がこうかけてある衣物かけに。その衣物かけにかけてある着物をね、見た瞬間です、それはず-んと毎日見とるです。私の心の中に開けてくるものがあった。いわゆる、悟りが開ける。もうそれこそ、いっぺんに心が開けた 勿論、私の信心が一大展開をそこからなしてきたわけであります。
 だから皆さんどうすりゃ、どういう信心させて貰えばおかげを受けるであろうかと、教えを頂いても頂いても、成程、成程と合点はいくけども、自分の心の中にピシッした、悟りとして心の中に受け止められないと言う事、こういう苦しい事がどうして有難いいわれるかという心が強い。けれどもそこを有難しという心になれよと教えられるのであるから、それを有難くならして頂く為には、どういう信心をさして頂いたら、この苦しい事が有難くなれるであろうかと、思い祈り続けなければいけん。
 だから信心ちゃ重いものを持ったり、背中に背負うたりする事じゃないですね。自分の心の中に持つだけ、そこから開けてくる。その開ける心がね、もう次のおかげを頂く。自分は極楽と言う事になる。これは玉水の湯川先生のお言葉の事とここのところ思い合わせて、一切合切が有難いと受けられる。受けるのが実は本当なのだ。話を聞けば聞く程、神様のお働きの中、御都合の中、御神愛の中と言う事がわかるのである。
 けれども有難く受けられないところに私共がどういう信心をさして頂いたら、それが頂けるかと思い願い続ける事、それが信心。そこから有難し今みかげをという心になってくる。今こそ不思議な不思議な働きに導かれて、今日只今、こういう苦しい思いをしておるのだと、それはこういう微妙な不思議な働きに導かれてと言う事がわかるところに、神様相すみませんとか、有難うございますという心になれるわけであります。
 どうぞ一つ、念と言う事を申します、一念と、その一念を燃やし続ける、それも、なら今申しましたよくない事を、例えば祈り殺すと言う様な、もう、腹が立って腹が立ってしまい、本当に私の祈りだけでも祈り殺すと言う様に一念でね、人を病気させたり、祈ったり、祈り殺したり、出来るようなひどいものになってくる念というのは。それと信心はそれと反対の事です。
 人が助かり、自分が助かり、おかげが頂かれる。そういう念が、そこに念の働きというのがあるわけです。有難し今みかげをという心になれよ。そういう心にならして頂く為に、私共はもっとよい思いを、よい念を、いわゆる念じ続ける。思い続けるところがすこし欠けておるのじゃなかろうか。それがあまり、ざ-っとしとるのじゃなかろうか。私はコリ性というが。
 私共信心さして頂く者はそういうところに本気でこらして頂いてそこから、飜然としたものが開けてくる。そこから有難し今みかげをという心が頂かれると思います。これは私の体験を通してそれを思います。とにかく思いが足りんのだと、御用が頂きたい、おかげが頂きたい、こうこういうおかげが頂きたい。それが神様に喜んで頂く事であるとするなら、それを一念発起してね思い続けてごらんなさい。必ず成就する。
   どうぞ。